文字を思い出すときに指が動いてしまうことがあるのは、なぜでしょうか?
「あれっ、この漢字どう書くんだっけ?」そんなとき、無意識に指先が動いた経験はありませんか? 手のひらや空中に文字を書くような、この動作(別の言い方をすれば、しぐさ)は「空書(くうしょ)」と呼ばれます。
また、古文書のくずし字を読む研究者が、心の中で筆の運びをなぞることで読解が進むことがあると言われています(横山詔一「文字はココロの眼と指で読む」)。研究者のあいだでは、心の中で筆の運びをなぞる読み方や実際に指で文字をなぞる読み方を「なぞり読み」と呼ぶことがあります。
空書やなぞり読みは、一見、ただの癖のように見えますが、実は文字の読み書きに深くかかわる不思議な行動なのです。
空中に浮かぶ文字 : 空書のしくみ
まず「空書」について。漢字の形を忘れかけたときや、英単語のスペルを口で言おうとしたとき、私たちは紙にペンで書いたり、スマートフォンに入力したりしなくても、指を動かして思い出そうとすることがあります。これは、文字を「頭で考える」だけでなく「体で覚えている」ことの証拠です。心理学では、動作やアクションが記憶を助けることが知られています。書くという運動感覚そのものが、脳の奥に眠る文字のイメージを呼び覚ますという説があります。
たとえば、次のような「漢字の足し算クイズ」を出すと、無意識に空書を始める人がいます。「黄」+「木」で「横」、「口」+「十」+「共」で「異」。では「月」+「糸」+「口」は……? こんな問題を考えているとき、指を動かさないように意識すると、なかなか答えが出てこない場合があるようです。
興味深いことに、この空書の習慣は文化によって差があるという研究者もいます。たとえば、英単語「flower」を思い浮かべ、そのつづりを後ろから「アール、イー、……」というように口に出して言う課題では、日本人大学生の約8割が空書を行なうのに対して、欧米人大学生は空書をほとんどしないという報告があります(佐々木正人、渡辺章「「空書」行動の文化的起源 : 漢字圏・非漢字圏との比較」)。日本人は「書く経験」と結びつけて記憶する傾向が強いからだと考えられています【注1】。
指でたどる : なぞり読みの効用
一方の「なぞり読み」。小学校低学年で、先生に「指で文字を追いながら声に出して読みましょう」と言われた経験を持つ人もいるでしょう。目だけで文章を追うのは、意外に難しいものです。特に、子どもや本を読み慣れていない人にとって、行を飛ばしたり文字を読み落としたりすることはよくあります。そんなとき、指先で文字をなぞると視線が安定し、読むリズムも整いやすくなるのです。
さらに、なぞり読みには文字の記憶を助ける効果もあります。指で文字をなぞる動作と、目で文字を見ること、声に出すことが一体となることで、文字の形・音・意味がより強く結びつきます。これは大人になってからも有効です。外国語の勉強や難しい専門書を読むとき、自然に指で文を押さえながら読む人がいるのも同じ理由でしょう。文字をなぞることが理解と記憶を助けているのです。

共通するのは「体が覚えている」こと
空書となぞり読みは、一見すると別々の行動のように思えます。しかし両者には「身体の動きを通して文字を理解しようとする」という共通点があります。
現代の心理学では、人間の知的活動は頭の中だけで完結するのではなく、体の動きや環境とのやりとりを通して成り立っていると主張する説があります。これを「身体化された認知」と呼びます。空書もなぞり読みも、まさにその典型例です。脳の中で記憶を探すだけでなく、手や指を動かすという身体的な行為を組み合わせることで、文字の理解や記憶がぐっとスムーズになるのです。
純粋失読という病気では、視力は正常なのに文字が読めなくなります。ところが患者に文字を指でなぞらせると、読めるようになる例が多数報告されています(櫻井靖久「読み書き障害の基礎と臨床(解説)」)【注2】。この病気は、フランスの神経学者デジュリーヌ(Joseph Jules Dejerine)が約130年前の1892年に報告しました(杉下守弘「離断学説の展望」)。
先に紹介したように、古文書のくずし字を読む研究者も、心の中で筆の運びをなぞることで理解が進むと言います。書き手の動きを追体験することが、読み手にとって大きな助けとなるのです。
こうした現象は「体が覚えている」という考え方で説明できます。特に漢字のように画数が多く複雑な文字は、形を視覚だけよりも、書き順や手の動きとセットで思い出す方がより確実です。試験勉強中に「えっと、この字はどうだったかな」と空中で指を動かす動作(しぐさ)は、無駄どころか合理的な記憶術だと言えます。思考や記憶は頭の中だけで完結しているのではなく、指先の動きや声のリズムといった身体のアクションと結びついているのです。

デジタル時代にこそ
いまやスマートフォンなどの文字入力機能を使えば、漢字の形を忘れても文章は書けます。その便利さの陰で、手を動かして文字を覚える機会は減っているように感じます。しかし、漢字をど忘れしたときに、空中に文字を描く動作(しぐさ)が減少していくのか、それとも逆にますます大切な記憶の支えになっていくのか、今後の長期間にわたる継続的な研究を待つ必要があります。
空書やなぞり読みは、目立たないけれども、私たちの読み書きという「言語生活」を支えてくれています。机の上にペンやスマホがなくても、指一本あれば思い出せる。そう考えると、文字との付き合い方は、意外に奥深いものかもしれません。
注2 純粋失読に共通する症候は以下の通りです(櫻井靖久「読み書き障害の基礎と臨床(解説)」)。①文字、単語ともに読めない。②患者は自分の書いたものも読めない。③単語を構成する文字を1字ずつゆっくり読んで最後にやっと意味がわかる(逐字読み letter by letter reading)。④文字数(語の長さ)が多くなるほど、読みに時間を要し、誤りも多くなる(文字数(語長)効果 word length effect)。⑤読めない文字を手でなぞると、成功する(schreibendes Lesen、kinesthetic reading)ことがある。⑥読みに比べて、書字は保たれる。
参考文献
- 櫻井靖久(2010)「読み書き障害の基礎と臨床(解説)」『高次脳機能研究』30巻1号、pp.25-32.
J-STAGE - 佐々木正人、渡辺章 (1984) 「「空書」行動の文化的起源 : 漢字圏・非漢字圏との比較」『教育心理学研究』32巻3号、pp.182-190.
J-STAGE - 杉下守弘(2002)「離断学説の展望」『認知神経科学』3巻3号、pp.154-160.
J-STAGE - 横山詔一(2006)「文字の認知単位」『月刊言語』35巻10号、大修館書店、pp.36-43.
- 横山詔一(2009)「文字はココロの眼と指で読む」『日本語学』28巻15号、明治書院、pp.40-48.
- 横山詔一、渡邊正孝(2007)『記憶・思考・脳』(キーワード心理学シリーズ 3)、新曜社
- 横山詔一、久野雅樹(2025)AI小説『AIが変える心、心が変えるAI : 生成AIいとをかし(4)』第6章「空書の人間心理をAIは読めるか」Jxivプレプリント、科学技術振興機構(JST)
Jxiv
横山詔一

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